昭和52年11月27日 特別奉修委員



 ご祈念の前に、波多野さんがお届けをされる中に、この頃自分の信心が、妙な風と思うとったと、言う事を言われるんですけどね、やっぱりあの、自分の信心というものが、いつも、これでよいのだろうか、ほんなこてどうかこの頃、妙な風と言った様なものを感じる、ような信心にならんと、信心が向上しませんね。いつも同じのところで、どうもこの頃、自分の信心が妙な風と思うとったら、今日の御理解を頂いて、なんかはっきりしたと、こう言う訳なんです。
 だから只御理解を頂いただけでは、はっきりしてこんです。自分がいつもいうなら、どう言う事かというと、求めに求め続けとかなきゃいけない。いわゆる求道です。道を求め続けとかなきゃいけない。それでなら今日の御理解を頂いて、どういうわけ自分の信心が妙な風だろうかと、思うておった事が、今日のご理解を頂いてはっきりしたと言う事は、どう言う事かというと、結局自分を空しゅうすると言う事の焦点がね。
 そんなら私は一番手足がなんかというと、教会の事を一生懸命祈ると言う事だと思うね。してもう教会の御用に没頭すると言う事だと思うね。御用があるけん、例えば今日あたりのように、沢山な丸少のあれで、みなさん丸少のお母さんだんな出てきておりますけど、本当にあのそれがね、そう言う事が、例えば私自身の体験から言うとることですけれども、もう教会のこと一にも教会。
 二にも教会、三にも教会という生き方を身に付けていくと、そこから次の大きな信心が分かってくるです。育っていくです。そして結局は私が教団の事を思うようになり、なら本当に世界総氏子というか、世界中になら、和賀心時代を広げにゃならんと、言った様な大きな願いがでけて来た様に、そこにはいつも、自分というものが空しゅうされておる。私はその今日は、その手立てとしてですね。
 自分の信心のいうなら、いつもかつもとはいかんけれども、なんか御用がある時には、本当にそれこそ、自分というものを捨てきった御用、そこからね、今日波多野さんが言われる、どうもこの頃自分の信心が妙な風。妙な風と思いよったら、ここんところが欠けておったと言った様な事をね、まぁ今日のご理解はまた他にも、いろいろ感じさせれる所があったと思うんですけれども。
 でないと分からない。やはりこれでよいのだろうかと言った様なね、ものがなからな。いつもどうもこの頃妙な風、いや自分の信心がですよ。自分の信心がどうか妙な風と思う、毎日お参りはしよるけど、毎日祈りも真剣にさしてもらいよるけど、なんかどこか妙な風、妙な風と思いよったところが、焦点がずれておったと言った様な事が気づかせて貰う所から、やはり信心が引き立ててくれるように思うですね。
   どうぞ。